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「近代の超克の方向」(下村寅太郎) について
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Seiji Amashige
May 16, 2023
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「近代の超克の方向」(下村寅太郎) について
「近代の超克」に掲載されている下村寅太郎の論考について
Seiji Amashige
May 16, 2023
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Transcript
「近代の超克の方向」(下村寅 太郎)について
下村寅太郎(1902-1995) 1902年(明治35)8月17日京都市に生まれる。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科 に入学。西田幾多郎、田辺元に師事する。ライプニッツ研究や、数学の哲学・科学哲学の分野で 研究を開始する。1943年(昭和18年)6月から8月にわたって「野々宮朔」というペンネームで雑誌 『知性』に「東郷平八郎」を連載。1945年(昭和20年)に東京文理科大学教授、1949年(昭和24年) に東京教育大学文学部教授となる。1956年(昭和31年)後年に思想の転機となったと語る、はじ めてのヨーロッパ旅行に出る。以後、レオナルド・ダ・ヴィンチやアッシジの聖フランシス、スウェー デン女王クリスティナらの研究などを手がけ、ヨーロッパの「精神史研究」における業績を広げてゆ く。1983年(昭和58年)に畢生の大著『ブルクハルトの世界』を上梓する。1995年(平成7年)死去 (享年92歳)。
下村が科学哲学の分野で研究を開始した当時は新カント派の全盛期であり、科学についての哲学の主要な問題も、科学的な 事実の超越論的基礎を解明するという、認識論上の問題が中心となっていた。日本におけるこうした関心からの研究として は、田辺元の『科学概論』(1918年)や下村の『自然哲学』(1939年)があげられる。 しかし、やがて下村は、科学の存在が自 明な事実ではなく、科学の成立は近代ヨーロッパにおける「事件」であり、科学は歴史の内で成立したものであると考えるように なる。 下村はこのような立場から、『科学史の哲学』(1941年)においてギリシア数学の成立過程をあきらかにし、ヨーロッパの学の理 念がどのように形成されてきたのかを考察する。 またつづく『無限論の形成と構造』(1944年)において近代数学の形成過程を たどり、純粋数学の成立が、近代における機械の形成と類比的に理解されることを示した。 下村は近代数学の思惟のありかたを「記号的思惟」と特徴づけているが、その形成過程をたどることは同時に「機械を作った 精神」を理解することでもあった点にも留意すべきであるように思われる。 https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-shimomura_guidance/
我々が「近代」と称しているものはヨーロッパ的由来のものであり、少くとも今日そ れの超克が問題にされる「近代」は、その外には存しない。それ故我々に於て近 代の超克が問題になり得るとすれば、それは具体的にはヨーロッパ的近代との対 決に外ならぬ。(...) しかし現代の我々に於てヨーロッパは既に単なる他者ではない。我々の先人や 我々も事実上近代の西洋を身に着けることに努力し、それに於て成長してきた。 それに対して、何を、如何に、如何なる程度に、受容したかを、反省し批判してい るのが今日の我々である。これが専ら我々における近代の超克の問題の内容で ある。 もちろん、近代がヨーロッパ的由来であるにせよ事実上我々の近代になったこと、
またなり得たことは、それが世界性をもっていることに外ならぬ。 (...)そうしてその 結果が彼地におけると同様に我々においても病的症状を呈してきたとするなら ば、問題は単に彼の批評に尽しえず、我々自信にも向けられねばならぬ。近代と は我々自身であり、近代の超克とは我々自身の超克である。 (...) 我々がもし問題に対してあくまで自主的であろうとするならば、近代の超克そのも のを改めて問題とせねばならぬ。 (...)近代が否定さるべきであるならば、それは現 実的には、何を意味するかが覚悟され、それの帰結に対して徹底的に責任を負 わなければならない。我々は改めて、「近代を否定し得るか」から出発すべきであ る。 「近代」はヨーロッパにおきたが、すでに我々も事実 上「近代化」をしてきた。いまはどの程度「近代化」し ているのか、その反省の途上である。ヨーロッパ近 代はわれわれにとっても他者ではないから、他者と してのヨーロッパ近代を批判するのは安易である。 下村は、「近代の超克」という題において、以下ふた つの方向を考えている。 1. 反近代(近代否定論) 2. 超近代(近代を受容したうえで近代を克服す る) 下村の結論としては 2 だが、1 がどのようなものか いちおう吟味する。”「近代を否定し得るか」から出発 すべきである” とは、吟味はするが、反語的にも読 める。 また、ヨーロッパの世界性云々は京都学派にたいす る牽制とおもうが、ヨーロッパ近代が他者かどうかと いうのは、日本浪漫派やナショナリズムのような反 動性と合わせて検討すると興味深い主題だとおも う。明治において欧米は文字通り「他者」だったとお もうが、昭和もこの時期になると、「日本の内なる他 者としてのヨーロッパ」が意識されている。 近代の超克の方向(下村寅太郎)
ヨーロッパにおいて近代の超克が問題となる重要な動機の一つは、常に繰り返されて 言われる如く、近世の文化が外面的機械文明に堕し来ったことにある。しかしそれでは 近世以前においては文化は専ら精神的であったか、人間は専ら内面的であったか。 (...)近世は(...)中世そのものの発展ではないか。 近世は機械の形成によって却って人間を機械の奴隷にしたということも一つの常套語 になっている。(...)しかし機械の発明以前においても人間は違った仕方において、寧ろ より多く、奴隷であったのではないか。(...)人間を機械の奴隷にしているのは固より機 械そのものの責任ではなくして、それを運用する組織制度、結局、精神に帰すべきもの である。(...)我々は、果して機械の破壊そのものを敢て欲しうるであろうか。 しかし、機械の齎したものが外面的な「文明」にすぎず、内的な「文化」ではないではな
いかと言われるでもあろう。これは確かである。しかし文明を媒介にしない単に内面的 な文化がそもそも可能であろうか。(...)問題はむしろ積極的に文化が文明に追い付くこ と、そうして文明を支配することにあるのではないか。近世の危機はその意味において physical science と mental science との平衡のとれないところにある。しかし進みす ぎるのが不可なのであるか、遅れすぎているのが不可なのであるか。 これらの反省は固より「近代」をそのまま肯定するためではない。唯々近代を単に消極 性においてでなく、それの積極性を承認した上でそれの止揚を考えようとするのみであ る。近代を専ら悪しき時代、無駄なりし時代なりと敢て言うならば、それは我々の現実に 対して正直ではないからである。 機械文明の問題点について。 1. 機械文明が外面的であること 2. 機械によって人間が奴隷化していること 3. 機械は文化を生まないこと これら批判的なクリシェにたいして、その両価性 を指摘していく。たぶん、これらのクリシェは、座 談会に参加したそれぞれの論客の意見に割りあ てられているとおもわれる。 1 は、宗教学の吉満への反論にみえる。 2 は、明確な対象はみあたらない気がするが、 もっとも反語的な文章。 3 は、たぶん文学者たちに宛てたものだとおも う。 下村が近代の両価性を指摘するのは、座談会で は「近代」にたいして否定的な見解ばかりだった からだとおもわれる(座談会中でも不平を漏らし ている)。 近代の超克の方向(下村寅太郎)
この前提の上で始めて「精神」が問題になる。自然が必然であるのに対して、精神 の本質は自由である。自然に対する精神の優越は、これは精神の公理である。 (...)問題はその自由の性格にある。古代の賢者の知慧は、これを、魂を訓練する ことによって自然に随順することに求めた。主観的な自由と言う外ない。 近代の哲学は「客観的観念論」を形成した。しかしこれをして真に「客観的自由の 観念論」に至らしめること、これがもともと近代科学を形成した近代精神の自覚的 到達点である。 近代科学の実験的方法は本来、自然において、或は、自然的に、存在しないもの を現出せしめんとする方法として、魔術と共同の精神である。それの認識目的は 本質形相の直観ではなく、自然の可能性の展開にある。近代的機械はその所産
である。これは自然の再構成、或は寧ろ自然の作り替えであって、単に自然の応 用や利用ではない。 この近代的機械の形成において成立するものは、単に自然からの主観的な独 立、主観的な自由ではなく、真に客観的に自由になること、客観的独立である。客 観的観念論はここに始めて具体的に実現される地盤を獲得したというべきではな いか。近代科学の精神史的系譜は唯物論ではなく、このような観念論である。観 念論は、存在の直接性を承認せず、凡る存在を常に主観に媒介されたるものとし てのみ承認する精神だからである。 古代の「魂の訓練」は、亀井の「芸」の定義「文学 も絵画も彫刻も、それぞれ固有の限界をもち、こ の限界の精緻な測定に芸が成立する」と対応で きる。亀井はそれぞれのメディアの限界の測定 は訓練によって行われていると考えているとおも う。 自然や身体を訓練によってコントロール可能に することが「主観的自由」。 それに対して、自然や身体を作り出してしまうの が「客観的自由」であり、近代科学の特性。自然 を作り出し造り替えるという意味において、客観 的な自由だと言っているとおもわれる。 この指摘は座談会中でも pp.186-189、 pp.261-262 に出てくる。 近代の超克の方向(下村寅太郎)
> 近代科学が具象化する際の状況を見ますと、一方ではポンポナッチのような占 星術的な考え方とそれに対してフィチノのようなマジック的な考え方が対立してい る。所で占星術の基礎になっている考え方は、世界を宿命的必然が支配してい る、そこから星の位置と人間の運命とが連関をもつと考えられてくるわけですが、 そういう宿命的必然性というような考え方に対して人間の魂の独自性、人間の精 神の自由を確立しようという意欲が、それを「魔術」によって打破しようという、そい ういう形で現れてきている。 (...) 魔術というものは自然的に存在しないものを現出せしめることを意図しているもの
で、これが実験的精神に連なるというのは、実験というものは自然を単にありのま まに、純粋に客観的に観察することではなくて、自然的に存在しないものを、人間 の手を加えて実現させて見る。自然をそれの存在性において見るのではなくて、 それの可能性において見る。自然の内部を外化せしめて見る、そういうものが実 験的方法の根本的精神であると思います。 (...) この実験的精神と先の占星術的な必然的因果性 ––自然必然性の思想とが統一 されて、ここに近代科学の方法が確立することになる。それが自覚的に形成され たのがデカルトとガリレイの時代だと思います。このような近代科学のもっている 認識の性格は古代のように、事物の本質や形相の直観ではなくして、事物の可能 性を引き出して見る、事物を静的にでなく、動的に、力学的に見る、所謂自然を拷 問して自然自身に答えさせる、そういう意味で、近代科学の認識は (...)技術的形 成的認識という性格を持っている。 座談会 pp.186-188 下村の「魔術」は座談会のメンバーにはあまり理 解されていない。 座談会
> 自然支配という言葉も曖昧ですが僕に言わすれば 結果として機械を形成するよ うな認識が近代科学の知識概念 だと思いますが、その場合の機械というものも近 代科学以前の機械のように単に身体の延長や補助というようなものでなく、又自 然力の応用とか利用とか、そういった性格の機械ではなく、 近代的な機械というも のは、自然の模倣とか、自然のアナロジーではなくて、 自然の再編成、自然の再
構成、或は自然を造り替えるという、そういう性格を持っているもの で、そういうも のが初めて近代的の意味での機械なんです。そういう性格を持った機械を形成せ しめるような認識が近代科学的認識であって、近代的技術というものもこのような 近代科学的認識を媒介にした技術です。 座談会 p.193 座談会
ここで問題になるのは言うまでもなく魂の概念である。基督教的思想の特色の一 つは、魂を専ら内的なるものと解するにある。かかる伝統的な魂に対してのみ新し き精神は外面的なのである。古代の魂は肉体に対する霊魂であった。しかし現代 においてはもはや単なる肉体は現実的には存在していないのである。現代の身 体は機械を何らかの仕方において自己のオルガンとしているオルガニズムなので ある。 魂/肉体と精神/身体の概念ペア。 近代の超克の方向(下村寅太郎)
> この身体に対しては、内的な覚悟や私的な鍛錬という如き古代の心理学の方法 では尺度に合わない。政治的社会的、或は更に国家的な方法を要求する。 > しかし精神の改善や改革が殆ど困難であることは、文明は進歩するが文化には 必ずしも進歩がないことにおいて顕著である。「人性」は殆ど古代と異らぬ。改善 は不可能に近い如くである。しかしそれに対して如何なる方法が適用されたかが 問題である。内省、説得、苦行、訓練等々の方法の外になかったのではないか。 その場合、精神に対する一定の解釈が前提されており、それによってそれの方法 が制約されたのではないであろうか。
> 近代の超克の方向は新らしき精神の概念の自覚を通してその方法を見出すべ きではないであろうか。新らしき知性改善論がすでに大規模に、正に人間の歴史 においては空前の規模において、実験されつつあるのではないか。 > 現代の哲学者も亦「知性改善論」を構想すべきではないか。 近代の超克の方向(下村寅太郎)