2025年12月5日に「おい、テックブログを書け」という登壇をした。
「おい」である。命令形である。30分間、人前に立って「書け」と言い続けるという、冷静に考えるとなかなか傲慢な振る舞いをしてきたわけだが、登壇資料を作っている最中、ふと気づいてしまった。書けと言っている自分は、なぜ書いているのだろうか、と。
技術ブログを書くことについて語ろうとすると、それは私が「書いてきた」ことを晒すことに他ならず、AIとの付き合い方を語ろうとすると、それは私が「どう仕事をしているか」を開陳することと紙一重になる。そうなると聞いている側からすれば、こいつは結局、自分の話がしたいだけなのではないか、登壇という大義名分を得て気持ちよく自分語りをしているだけなのではないか、と思われても仕方がない。いや、実際そうなのかもしれない。そう見られることへの嫌悪感と、そう見られまいと振る舞う自分への嫌悪感が同時に存在していて、どちらに転んでも結局イヤなやつなのである。
しかし登壇というのは厄介なもので、「書け」と命令するからには、自分がなぜ書いてきたのかを明かさなければ説得力がない。説得力のない登壇ほど空虚なものはない。空虚な登壇をする自分を想像して、それはそれで耐えられない。結局、自己開示から逃げられない構造になっている。なんという罠だろうか。
身体性という言葉を使った。AIに記事を書かせることについて話した。私の答えは明確で、記事はほとんどAIに書かせている、しかし価値の源泉は私にある、と。私が素材を提供し、AIが構造化し、私がレビューして調整する。編集者としてのAI。この協働こそが現代の執筆だと、そう話した。話しながら、これは本当にそうだろうかと自分を疑う自分がいて、でもそういう迷いごと引き受けて喋るしかないのだった。
まず自分のために書け、結果として、それが誰かを救う。そう締めくくった。
https://forkwell.connpass.com/event/377267/
https://syu-m-5151.hatenablog.com/archive/category/%E3%81%8A%E3%81%84%E3%80%81
自宅からの昼登壇だったので、終わってから昼飯を食べに外に出た。参考書籍として紹介した本をもう一度読み返そうと思って、鞄に入れてきていた。店に向かう道すがら、本を開く。